昭和五十年十月十一日     御理解 第九節
「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ信心はこころを狭う持ってはならぬ、心を広くう持って居れ、世界を広う考えておれ、世界はわが心にあるぞ」



自分の心の狭さ、自分の心の小ささと、もういつもそう言う心の狭さに、行き当たります そして自分なからこれ程間違いのない神様を頂きなから、こんな小さい心ではと自分で反省させられます、その反省があって初めて次ぎの信心に進んで行く事が出来るのです、又精進が出来るのです、これを教団と言う大きな見地から言うてもそうです、金光教は余りにも心が狭すぎる。
金光教的であるとか、あちらは金光教的ではないとか、例えば椛目合楽を通して、もう三十年近くになっておるので、教会になりえたのはようやく八年、それまでは椛目であれだけどんどん人が助かっておるのに、やはり金光様、御本部中心にしての信心を頂いておるにもかかわらず、教会になりたいと言うても願っても、それをなかなか教会にしなかったでしょう、これはもう金光教が心が狭い証拠であります、まあだ全国には何十回と言うて金光様の名を拝まし頂きながら、金光様を称えて助かっておると言う、まあ何何会、  会と言ったようなものがあるようですけれども、やはり中にはいかがわしいものもあるらしいですやはり、けれども金光様を称えて、そこに人が助かっておるのですから早くそれを、いけないところは正させて、そして教会に引き立て引き上げて行く位の私は心の広さが要ると思うです。
例えば教会になってからでも、今申しますように金光的でないかと、言うような言葉を使われるとか、金光様が教えて下さる信心、天地金乃神様と言う神様は、そんなに度量の狭い小さな神様ではない、教祖御自身が此処にも仰っておられる、世界はわが心に在ると仰せられるように、心の広さ内容を持っておいでの方だったのですから、ましてやここに宗旨嫌いをせぬと言うておられるところもそうです。
  教団のようにあれは本なものじゃない、あれはちがっておる、あれは邪教だと、あれは何だと、もう自分のだけがよいのであって人のは皆くさす、くささな出来んと言う位な宗教すらがある位ですから、ですけれども教祖様はそれを宗旨嫌いをせぬと、それを例えば釈迦もキリスト教もやはり天地金乃神様の氏子だからと言う見地です、だからそう言う世界は我が心にあると、言うような大きな心が出来られたんだとと思います。
まあそこでこれは人事ではない、私自身の事ですけれど、今申しますようにいろんな事いろんなことに直面するときにです、ああ自分の度量の狭さ、自分の心の小ささをです感じます、それでおかげを頂きたいのですから、やはり大きなおかげを頂きたいのですから、愈々大きな信心をさせて頂かねばならない、広い心にならせて貰わねばならんと、まあ思うのでございます。
最近合楽示現活動が段々頂いてこの方、本当に思いもかけない御信者さん方が、合楽に御引き寄せ頂いて日々新たな方達がお参りをして参ります、これもやはり示現と言う事が、神様が特別な不思議な働きを示し表して下さると言うような、事だそうですけ確かに神様が先に立って不思議な働きを示し現して下さる、いわばしるしなのです。
私共のその神様の働きに参画さして貰う、預からして頂いてどうぞ合楽示現活動に参画さして貰う、おかげを願わして貰わねばなりません。
同時に私が最近思います事は合楽示現活動に参画して頂いておるので、おかげを頂いて貰わなければならんが、神様が折角示現なさっておられる、示し現しておられる、そう言う働きのお邪魔になってはならないと、言う事でございます、私の小さい度量が小さい心が神様のそうした働きを、狭めるような事があってはならない、お邪魔になってはならないとおもいます、皆さんもやはりそうです、お取り次ぎを頂いてお願いをなさる事、息子のことを願い娘の事を願い、家の誰かれの事を祈り願っておられるでしょう。
祈り願っておる事がそのおかげの神様の働きの、お邪魔になっておる事はないでしょうか これは本気で思って見なければいけません、例えて親が子の事を願わん祈らん筈はありません、それで言うなら神様がお働き下さるのです、はじまるのです、ところが自分の言わば人情、言うならば我情我欲でもって、息子の上に又は子供の上にでです、まあガタガタ言うといたしましょうか、そう言うような事はもう間違いのない神様のお働きの邪魔になるのです。
例えば個人のいろんな事がございます、いろんな行事があったりいろんな御用があったり致します、まあ例えば月次祭でもそうです、大祭でも尚更そうです、その教会長私がです ああもせにゃいかんこうもせにゃいかんと、指図してまわって自分自らあれにもこれにも、手をつけこむような事を致しましては、本当の大祭は頂けません、それを私が神様にお願いしてあるんだから、祈ってあるのであるから、神様が誰かれを使って十二分の働きを下さる筈なんです、それを教会長が出て来てガタガタ言う、そこにです言うなら大きな大祭が頂けるのが、小さい大祭になってしまうような、事にしかならないことを私はよう知っております。
ところが自分の我情が時々出て参りましてね、ああがよいの、こうがよいのと、指図をするようになります。自分が出ただけ神様の働きが頂けんのです、間違いないです、ですから皆さんでも自分の家庭の事でもそうです、自分が如何にも采配を振っておる、自分か如何にもよい様によい様に思えばこそいいよると、言う事に間違いないのです、けれども、そのよい様に思うておるそのよいことが我情でありますね、例えば子供の勉強してやるでもそうです、神様がちゃんとお育て下さってある、働きを下さってあるのにです、自分でおかげを小さい形にはめてしまって、自分の思う様になる事がおかげの様に思うて、おかげを小さくしてしまう、所謂おかげを落としてしまうような例が沢山あるかと思います。と言うて放任しておけと言うのではないのですよ。
今の大祭なら大祭を私が奉仕さして貰うときに、もう一切が神様に任せきりと言う事は、御信者さんに任せぎりにしておると言う事は、なら私は腕こまぬいて何もしよらんかと言うとけっしてそうではない、如何にも形の上に於いては何もしよらんけれども、神様に一心に縋ることは、それこそ水も洩らさんような思いでお縋りさせて頂いておる、だから神様が誰かれをつかまえ、具合ようしてくださるのです、皆さんここんところを一つ体得して下さると大変有難いです、家の中でもそうです、あんまりだからね、学が身を食うとかあんまり気が利いたとか、気の利いたのが悪いのではない、学問することが悪い事ではないけれども、学問をすると色んな知識が邪魔をする事がやっぱりある訳です。
そりゃあこうするが本当、そりゃあこうせねばいけないとか、あんまりあれやからこれやら詳しくなるとです、自分の所謂我情がでるのです、人間心が強うなるのですそれでわね、それでわね願ってるおかげがくずれて来るです。
だから言うならば見かけはほんにのんきにしておられるようにある、それでいて神様がこちらの願い以上に、思い以上に切り盛りをして下さる、働いて下さる、そう言うおかげを は実感させて貰わねば今日の御教えは分からないと思う。
大きなおかげを頂きたいのです、神経が細かいのがいけないと言うのではありません、もう事、神様に向かってはその小さい小さい神経がです、もう微妙なまでに神様との働きを妙なものにして行く、毎日、深山さん深山製材所の奥さんです、日に二回づつ、三回もお参りなさる事もある、昨日も朝参って見えとったから、又一時間ばかりしてから又参ってきとんなさるもん、教会に居んなさるかと思うとったら帰られた。
それがほんの一寸した事が気になって気になってしょうがないから、お取り次ぎ頂いて、まあ一遍お願いしようとて言う事になったらしいんです。その参りの道中に、バスをいつも自分で自動車で、見えんですからたまたま自動車がなかったので、バスを利用して来たと言うておられる、そしたらバスの停留所に来たら、どこの猫かしらんが猫がじゃれついて足元にひっかかってきて、どんこん出来ん猫は不浄と言う、そう言う風に言われるが、親先生どう言う風な御神意でしようかと言うて御神意を伺われた。
これは神経がこまいからそれも御神意、御神意があるに違いない。と言う事であります、もうそげな事はあんた、犬が吠えたりあんた猫がじゃれついたり、するごたる事があるくさいそれが一々あんた、そげな事はあんたいつでもあるくさい、それが一々あんたどげな御神意があるじゃろか、と言うちからそげな事は、どんこん毎日一歩でも外え出られんごたる感じがする、と例えば神経の大きい人がそう言う風に言うかも知れんが、神経のこまい人しかも心を神様に信心を受け続けておる人は、そう言う一寸した事にでもここに御神意があるのではなかろうかと、思う事は素晴らしい事だ。
けどそのために自分が身動き出来なくなる事はいけないのです、それで私申しました、猫は不浄と言われますから、お道で言う不浄と言うのは黒不浄とか赤不浄と言われるのではなくて、成就しない事を言われるのですから、猫がそげんして飛びかって来る時には、今自分がお願いしておる事は今のような事では、不成に終わるぞと神様が言うてござる、と思うてござると思うたらどうでしょうかねと言うたら、ああそうですね自分の心の中にお願いする事は一杯ある、それに今の私のような心の状態は、成就しないぞと神様が言うてござる。
そうすると自分の心を改めて行かねばなりませんねと、言う事で御座いました、だから深山さんそう言う神経はね、神様の方にだけ向けるのであって普通人間関係の事にだけ、一々その神経を使いよるとそれこそノイローゼになってしまいますよと、言うた事でございました。
私共でももう本当に神経が小まい、女のけーくされのごたると自分から思いよりました、もういろんな事が心にさわってしようがない、まあよう言うと細かい事によう気が付くと、いわれるかも知れません、今でも時々それが出てくるんですけれども、おかげを頂いてそれを気が付いておらんように、立ち振舞いが出来るように段々なって来た事に何よりも有難いと思う、言うならば心が段々世界が我が心にありと言うのでなくてです、合楽教会はわが心にありと言う風に思わせて頂くようになった。
信者さんの家に色んな難儀な問題が例えば起こっても、良い事が起こってもです私の祈りの圏内にあるのだと思えるようになった、だから困った事難儀な事には、になったら私の信心の不行き届きとしてお詫びをさしてもらい、それこそ鬼の首を取ったような、喜んでおられるような場合であっても、おかげを頂いておられる場合であっても、やはり私の祈りの圏内で起きておる事であるから、あれで調子を言わば取り損わんように、おかげを頂かれるようにやはり祈らせて頂くのでございます。
ですからなほ皆さんの場合であっても、自分を中心に自分の一家の事又は自分の祈りの範囲のこと、皆さんにもあるでしょう、だから祈りの範囲の事に、例えば子供なら子供の事を願っておるとするならば、その子供が右であろうが左であろうがです、神様のお働きをそのままその様に頂こうとしてです、それにがたがた言うようでは、神様の働きを邪魔する事になるのです。
宗旨嫌いをせぬ言うならばこれを教団では、同じ金光様を拝まし貰っておって、あれは金光教的であるとかないとか、と言う思い方は愈々畏縮してしまう、小さくしてしまうと言うような風に聞いて頂いた、教会の大祭を奉仕さして頂くでも、私が先頭に立って言いよれば私がガタガタするようでは、事では神様が折角ああもこうもと、思うてお働きあっている事を小さいものにしてしまうでしょう。
合楽示現活動と言う事をです、神様が言い出しなさってからは、この方は本当に神様が不思議な働き示し現しておって下さったと、思わにゃおられんような働きが教会に現れて来た、そこで現れて来れば現れて来るように、私が思う事はどうぞ私の小さい感情とか我情で、そう言う神様の働きがお邪魔にならんように、お邪魔にならんようにと、言うものを持っておると言う事。
これを例えば皆さんの個人の事を思わして頂くようになりましても、皆さんが祈っておられるお取り次ぎを頂いて、願っておられる事であるから、あなたが心配しなくてもよい、あなたがガタガタ言わんでもよい、それは決して放任して行くと言う事じゃない、神様に祈り願わして貰って神様の働きの邪魔にならんように、心を使わして頂く事だと言う風に今日は聞いて頂きましたですね。世界をわが心の中に納めると言う話しに、信心をお互い目指して頂くのでございますけど、自分の家業の上でも自分の心の中に治めきらんような事では、本当な素晴らしい信心過程はうまれません。
同時に私が今合楽示現活動と言う、神様の御活動があっておる、御発動があっておる、その御発動に言うならば燃えておるものが、水をかけるようなあり方にあってはならないと言う事を、心にいつも思うておきませんと、折角燃え上がっとるのに水をかけるような、折角発動が始まっておるのに、それを停止してしまうような心を使ったり、行いをしたりして折角の働きを無にしてしまうような事が実はあろうと思います。
おかげが受けられんと例えば思うならば、成程おかげを下さりよるけど、おかげを小さくしたり又はそのおかげを水の泡にするような、自分の在り方と言うものは愈々 させて頂いてそげな事じゃいかん、ただ自分と言うものを中心とした考え方ではなくて、それこそ神様の心、大きな心をもって、まあ神様の大きな心を通して見る見方が出来る様に段々ならなければならんと思います。
今日はいろんな事に直面する時にああ本当に自分は小さいなと、思う事があるでしょう、自分の度量が狭いなと思うでしょう、この位のことも黙って治める事も出来ない、時に自分の心の狭さを感ずるでしょう、そう言う感ずる時に愈々広くなるおかげ、心を大きくする修行とそう言う時に、愈々させて頂かねばなりません、こう言う小さい心では大きなおかげを願っても、大きなおかげの頂ける外はないと、言わば悟らして頂いて大きな心にならせて頂く、広い心にならせて頂く、広い心にならせて頂く稽古を本当にさせて頂かにゃいかんと思いますね。
          どうぞ。